「ちむぐくる」の正体–表現は、テクニックと理屈が支えてる

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※この記事は、以前mixiに投稿した日記を再編したものです。

私がかつて唄三線(沖縄民謡のこと)を教わっていた先生は、「表現」ということについて、すごく素敵な考え方を持ったかたでした。

よく、三線をやる人は「唄はちむぐくるが大事」と言います。

“ちむぐくる”とは、漢字では「肝心」と書きます。”きも”と”こころ”、沖縄読みして”ちむ・くくる”というわけです。真心や魂を意味する言葉で、ただ唄うのではなく、それをていねいに込めることが大事と言っているのです。

それは、沖縄的なたおやかさをふくんだ、とてもすてきな言葉です。

しかし、つねづね先生は、
「すぐそれを言いたがるやつは分かってない。三流さーね。」
と言っていました。

どういうことか。

「ちむぐくるが大事よ。」という言葉。すてきな響きではありますが、沖縄県外の三線初心者には

「技術などどうでもいい、真心が込もっていれば下手でもよいのだ」

という文脈で使われることが多い言葉でもあるのです。

先生は、そこがまちがっている、と言うのです。

先生は、唄については特にうるさかった。沖縄語の発音、声の出し方、発声のタイミングの微妙なズレ…特に本土の人間にとっては難しいことを、事細かに指導される。琉球古典の教本に定義された、小難しい発声法を引用することも珍しくありませんでした。

そういった細かなテクニックを学ぶことを抜きにして、どうして人の心に訴える唄が唄えようか、と先生は言います。”ちむぐくる”を表現するとはつまり、「私は真心を込めて唄っているのだ」と他人に分からせること。それを実現するのに果たして、テクニックという素地なしに叶うはずがあろうか?と。

つまり「気持ちを込める」とは、ただただ念じながら唄うことなどでは決してなく、伝えるためのテクニックを適切に行使するという意味だ、ということです。

「魂」や「ちむぐくる」といった言葉の美しさに酔うのもいい。感傷に浸るのもいい。そこにとどまって技術を学ぼうとしないのも最終的には個人の自由だが、それでは人に伝わる唄はできない。先生ははっきりとそう言っていました。


私はそれを聞いて、表現に属するものすべてに通じることだな、と思いました。

絵やデザインも、仕事にしているから、特にそう思う。好きだから描いちゃいました、なんとなくこれがカッコいいと思います、それだけじゃ人には伝わるものは作れないし、ましてや仕事にはなりません。私はたしかに絵描きですが、声高に感性とばかり言う人とは相容れないのです。

「心」や「感性」という言葉が好きな人は、なぜかテクニックを憎む傾向にあります。しかし本来、それらは対立するものじゃなくて、支え合って成り立つものだと私は思います。

 

三線ひとすじウン十年に生きてきた先生の言ったことに、三線の生徒としてだけでなく、クリエイターのはしくれとしても学ぶものがあったという、なんだか嬉しい体験でした。

 

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