私が旅をする理由 : 世界でいちばん、お得な旅のしかた
「旅行って、何がそんなにおもしろいの? 」
ひとことではとても答えられないが、滞在先の石垣島にて考えてみた。
とくに沖縄は、路地裏も観光地もすみずみまで興味深く、魅力的だ。だからこそ「癒しの島」というキャッチコピーばかりがフィーチュアされるのがどうも、気に喰わない。
私が沖縄へ来た理由は「癒し」を求めてではない。
たぶん、好奇心という刃物を研ぎにきたのだ。
「癒し」のコストは高い。
旅行中の私は、リラックスしていることがあまりない。何かおもしろいことはないか、何かいいスケッチ対象はないかと常に探しているから、むしろこれでいい。
青い海ややさしい人々に、癒される。もちろん、そのそれぞれの瞬間はかけがえのない体験だが、それに出会うためにかけるコストは、ずいぶん高いとは思わないだろうか。
本気で癒されたいならば、じつは近所の銭湯で十分だ。私の地元は六甲山系の恵みを受けて、一般の銭湯のほとんどに天然温泉がつく。ほどよい熱さの温泉と水風呂に交互に浸かったあとのふにゃふにゃの身体、この状態を差し置いて他に癒しなどない。しめて400円。もっと言うなら、この世で最高のリラックスとは、自分のベッドに潜り込んで猫を抱いて眠ることだ。1円すらかからない。
いくらLCCや安宿があるといっても、漠然とした「癒し」を求めるには、旅のコストは高すぎる。それでも旅をするのは、そんなものが旅の本性ではないからだ。
本物のバカンスは能動的
「癒される」やストレス解消を目的にした旅が何か違うと感じるもうひとつの理由は、ずいぶんと受動的すぎるように思えるからだ。日常で受けたダメージやストレスが、沖縄へ行くとなぜか勝手に身体から落っこちてくれるわけないし、地元の人もそんなものを置いていかれちゃたまらんだろう。
フランス人がバカンスにかける情熱は有名だが、そのために日々は質素な暮らしを心がけるそうだ。そうまでしても行く。
これは私なりの解釈だが、彼らにとって、バカンスは人生に組み込まれたシステムなのではないだろうか。つまり「家に帰るまでが遠足」よろしく、節約してバカンスに備えるところからがバカンスであり、人生をかけて「日常を超えた体験をする」というミッションに能動的に取り組んでいるように見える。
旅のコストは人生で回収される
例えば、人と人との距離が街によって違う。大阪近郊のベッドタウンに住んでいる私にとってはかなり特異なことだが、道ばたですれ違った他人にこんにちはと声をかけあうのが当たり前の街がある。ヌメアと宜野座村がそうだった。ふりかえって、私の地元で同じ行動をしたら、場合によっては警察に通報されるだろう。
いったいこの違いはなんなのか。是非を問うのではない。どうしてその違いが生まれたのか、その街の別の場所を見て気づいたり、あるいは自分なりに考える。何か新しいことに気づいたり、目の前の何かを面白がったりする力や感覚をやしなう、その実習にうってつけなのが、旅なのだと思う。
そして、旅のコストを最大限に回収するなら、常にアンテナを開いて、人任せにしないことだ。連れやガイドブックに任せっきりの旅は、せっかく払ったお金と時間がもったいない。
旅で得た経験は、人生に必ず返ってくる。
旅行経験の多い人と少ない人では多い人のほうが収入も多い、などというデータは知らないが、旅をして感覚の刃物を研いでおけば、人生のいろんな場面で豊かなフルーツを切り取ることができることだけは間違いない。