デッサンとお作法は、できるに越したコトないもの。
友達がタイムライン上に「親戚のお葬式に行って、もっとお作法を知らなきゃって思った」と書いたのをみて、個人的に感じたことがあります。
私は二ヶ月前に、弔問を受ける側をやったわけですが、その立場から見ると、弔問客のお作法を気にする余地は全くありませんでした。
なにしろ、亡くなった私の家族のためにわざわざ時間を割いて来てくださることじたいが有難いので、まずそのことへの感謝でいっぱいになってしまいます。しかもお葬式の間、家族はめっちゃ忙しい(笑)のです。ですから、お一方お一方の所作を見ている余裕などないのです。
ただ、自分自身が他人のセレモニーに出席するときのことを考えると、できる限りのお作法は知ってたいな、と私は思ってます。なぜって、それが気持ちを表現するために必要だからです。いつか三線の先生に言われたように、表現を支えるのは所作やテクニックでしかなしえず、念をこめりゃあいいというものじゃないのであり、それはお作法の存在意義でもあるのでしょう。
もしもマナーもお作法も何もないセレモニーというのがあったとしたら、それって一体どんなものなのでしょう。日本の一般家庭に育った私には、想像もつきません。弔問を受ける側がお客の作法を気にせずに済むのは、誰もが暗黙のうちにお作法を守ろうとしているから、なのかもしれません。
で、その気持ちを持つというだけでも、お作法の何割かは完成されているのではないか、とも思うのです。
だから、あんまり細かいことは気にしなくてもいいと思うyo。
ところで、こういうことからも仕事のことに思いを飛ばしてしまうのが私のわるい癖なのですが、デッサンというのも似たようなところがあります。
きっちりデッサンを取ると絵が説得力を持ちます。だからちゃんとするに越したコトはありません。でも、できていなくてもそれなりに美しくできることもあるわけで、あんまり細かいことは気にしなくていいのかなぁ、って。